以前から行ってみたいと思っていたベトナム。急に条件が整い行くことになった。HISが企画したアンコール(カンボジア)とハノイ(ベトナム)へのツアに参加した。
ユニクロのジーンズはガンボジア製ということである。それぞれどんな国だろうか、楽しみである。8月の28日に名古屋のセントレア空港を出発。
ハノイ空港に着陸直前に窓から見た景色。広い森と大きな川が見える。川の水は赤い泥で濁っている。
ハノイ空港から約1時間でシェムリアップ空港(カンボジア)へ。ここはハノイよりホーチミンに近い位置である。外は夕闇だが、名古屋より蒸し暑い。カンボジア風の空港の屋根が異国情緒をそそる。
シェムリアップはアンコール遺跡観光の拠点。小さな町で、大きな建物のほとんどが観光ホテル、レストラン、ではないか?舗装していない道路わき部分の土が赤いのがめずらしい。二人乗り三人乗りの小型バイクが走っている。
一泊して2日目はアンコール遺跡群の観光だ。まずアンコールトムから観る。入場門にいたる途中の池端で背中にこぶのある白い牛が数頭放牧してあるのを見かけた。池で沐浴している人もいる。数百年も昔の世界に入り込んだような気分だ。入場者は顔写真つきの入場券を一人ひとり首にかけさせられた。遺跡から石仏などの盗難が絶えないためらしい。
南大門から入るのだが、門への濠にかかる橋の両側にヒンズーの神々と阿修羅の像が一列に並び大蛇(ヒンズー教の蛇神、ナーガ)の胴体を綱引きのように引っ張っている。まずこの異様な石像群とその発想に度肝を抜かれてしまった。
寺院の建物、彫刻は12世紀後半の建造らしい。全般的に造りが細やかで、石像の顔の表情が穏やかで暖かい。特にアプサラ(天女)の像は魅力的だ。またユーモアあふれた像もある。この地域の当時の人々の心の豊かさがあふれている。
石を使った建築物や石像の風習や技術はどこから伝わったのだろう?やはり同様な石造りの建築物が多いインドからに違いない。インドはさらには遠くエジプトやローマから技術を学んだに違いない。ではなぜ日本には石造建築が作られなかったのだろう?山国だから石は十分にあるのに。
一方、アンコールワット(12世紀初期に建造)の中では物乞いの女性が目立った。裸足の子供が、シルク製品、果物、民芸品などを売りにまとわりついてくる。ポル・ポトによる国民虐殺時代終焉からまだ10年しかたっていない。
夕方はプノンパケン(沢山ある寺院の一つで高さ60mのプノン・パケン山の山頂にある)で夕日を見る。寺院の頂上から10世紀に作られたという人工湖(西バライ)が見え、日没の太陽が反射して美しいという。寺院に入ためには勾配が70度近い急階段を登らなくてはならない。登り下りするのは面白かったが、このような急階段にする理由が不可思議。
人工湖などもあり灌漑は十分で3毛作もできる環境なのに、今は人々が怠け者になり1毛作が多くなったという案内者の言葉が印象的であった。山の頂上まで登り降りする像のタクシーも興味深かった。急坂を下りてくる像の機敏さ、スピード、しなやかさに驚いた。
夕食はアプサラダンスを見ながらである。高校生くらいの年齢の訓練を受けた男女が踊っている。衣装が華やかですばらしい。手や指や足、胴を使った細かい表現がエキゾチック。アプサラダンスではないが農民の若者の踊りをイメージした創作ダンス?は若々しく活発でよかった。カンボジアの若者の意気を見せてくれた。
夕方にハノイに飛ぶ。ハノイ空港からハノイ市内のホテルに行く道のりでキャノンとかパナソニック、LGなどの広告灯が夕闇の中に光り輝き、カンボジアとは違う工業都市の雰囲気が迫ってくる。
3日目は、製陶で古い歴史を持つハノイ市郊外のバッチャン村を経由してハロン湾のクルージングにマイクロバスで向かう。市内はベトナム名物のバイクの大群が道路を埋めている。大半は若者が2から3人で乗っている。公共交通機関が無いに等しいからこうなる。
郊外に出ると、バナナの果樹園が続く。農夫が水牛をつれて歩いている。赤毛牛の放牧場もある。ただ柵が無いので隣家の庭先で糞をしてゆくこともあるそうだ。時々見られる池にアヒルの大群が養殖されている。珍しい風景だ。
郊外の住宅はみすぼらしいとはいえない。規格化された赤い屋根で2から3階建てのレンガ造りの家である。ベトナム戦争の後で作られたらしい。地震が少ない土地柄のために、こうなった。村の空き地に時々大量のレンガが積んである。家を作る前に集めておくらしい。郊外の建物は皆似たような外見である。ドイモイ政策で農地や家は私有とのこと。
村の中の道路を通る際に、案内人がベトナムの古い時代の村の特徴について講義してくれた。村は一つの生活独立体で生産から法律、裁判までを治めていた。その形態的構成は、寺、廟(びょう・・・祖先の霊を祭るところ)、祠(ほこら・・・神を祀る小規模な殿舎)、亭(ベトナム語でディンと発音・・・村落祭礼と,それを執り行う共同集会所)、三日月形の池などから成り立っているとアーさんが説明。しかし、それらを見る機会は無かった。中国でも日本でも古い時代には似たようなものはあった。中国、韓国、日本、ベトナムなどは同じ中国文化圏であることが良くわかる。
バッチャン村に立ち寄る。古い歴史をもつ焼き物の町だが、今は土は他所から持ち込んで、製陶、デザイン、絵付けなどが中心になっている。観光化したきれいな町並みだ。大きな傘の木があった。花瓶を買った。
ハロン湾への道は一部を除いて立派に舗装してある。道路沿いの風景は、広い水田地帯が続く中で時々町が現れる。どの町も道路沿いに同じような店がくっついて並んでいる。皆が道路沿いの土地を求めるので間口が狭くなってしまったのだそうだ。バイクの修理店、ケータイの販売店、衣服店、陶器店、・・・。少ないと思ったのが生鮮食品店、まれに果物を売っている店もあった。大体が農業地帯なので米とか野菜とか、肉類は自給自足なのかもしれない。店の裏がわにその町のいろいろな機能が用意されているようだ。たとえば、畑や食用の動物の飼育場所とか、・・・。
田舎で特徴的な建物は、間口の狭い3階建ての住居である。食パンのような薄い家である。赤い屋根とかカラフルなベランダを持った家であり、規格化されている。規格外の住宅もある。外国人の所有か?
鉄道も見かけたが、通勤などに使うようではなく、石炭やその他の何かをたまに運ぶようなのんびりとしたものである。車両が走っているのを見かけなかった。レンガを焼く工場群、露天掘りの無煙石炭鉱山、製鉄工場と煙突などが目に入る。
ハロン湾に近づくと、中国の桂林のような山が見えてくる。海の桂林といわれるのがハロン湾である。きれいな観光地化された湾である。遊覧船が何十隻も浮かんでいる。
我々は10人程度で一隻を占領し(数十人は乗れる)、デラックスな船旅となった。デッキで心地よい風に吹かれながらうたた寝したのは気持ちが良かった。
船上の食事はうまくはなかった。小船が近づいてきて、小学生と思われる女の子が手にバナナを持って飛び移ってきて買ってくれという。すばしこい身のこなしに驚いた。
4日目は再びマイクロバスでハノイに帰る。途中で2箇所、売店に立ち寄る。ほしいものは少ない。ベトナムの少女たちが絹の刺繍を実演し製品を売っていた。10年もやると目が悪くなって、仕事ができなくなるほどの細かい作業らしい。
午後にハノイ市内に入ると、バスはバイクの大群に囲まれる。建国記念日であり、休日なので人が多く町に出ている。ベトナム共産党の旗が至る所にはためいている。昼食後に徒歩で観光に出かける。
最初にホーチミン廟、一柱寺、大教会、ホアンキエム湖、文廟などを見学。面白かったのは文廟。科挙制度の時代の大学で、国民の中から優秀な人物を官吏に登用するための受験と修練の場。ベトナム人民が学問に優れた人物を重用すること、勤勉を美徳とするインテリジェントな国民であることがわかる。
民族音楽演奏も見せてくれた。両手をたたいてその音を竹筒に共鳴させて音階を発生させる楽器などが珍しかった。
案内人の言うには、同じ漢字文明の下にある日本とベトナムの違いは、日本が漢字を借用しているのと対照的に、フランスに占領されたことが契機になってアルファベットをベースとするベトナム文字を作って漢字から決別したことである(ベトナム人は文字を作ることができると表現)。この価値は自慢してしすぎることは無い。このために識字率は非常に高い。
その後、旧市街を通って水上人形劇場まで歩くゆく。バイクや自動車が流れる道を皆が横断してゆく。複数人が横断するには横一列で止まらずに歩くことである。2日前に急に走った日本人がバイクに轢かれて死んだらしい。水上人形劇はむかしベトナムの農民が水田で楽しんだというカラクリ人形であるが、水上での劇であること、大変にコミカルに作ってあることなどでユニークである。しかし、単調で途中で寝てしまった。
今回の旅は東南アジアの新興国を知る上で、大変有意義であった。カンボジア(クメール人・・・やさしい)とベトナム(キン族・・・中国系・・・すばしっこい)の国民性の違いなどがわかった。感じたのはこの地域の自然の恵みの豊かさである。この豊かさは住む人々のやさしい明るい性格を造り、アンコール遺跡のような大規模建築を可能にした。しかし、その豊かさが災いして現在は世界の進歩から遅れてしまっている。たとえば、両国とも自由主義の国ではない。なんとなく政治体制の硬さを感じる瞬間も多かった。早く政治体制を民主化して大きく発展してほしいものである。