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久しぶりの東京行きだ。10月13日(土)、名古屋を朝一番(6時20分)の「ひかり」で出発。車内放送の案内で外を見ると富士山がきれいに見えた。太陽光の照射角度の関係で影の富士山になっている。外は明るいのに富士山が陰って見えるのは、この時間帯ならではの光景で、おもしろい。山頂にまだ雪はない。

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 時間ができたので東京空町のスカイツリーに行ってきた。土曜日なので大変な混みようだ。登るのは3時間待ちなのであきらめて、ツリーの下から見上げるだけとなってしまった。ツリーの足元は高さが600m余りある塔にしては大変コンパクトな感じを持った。ツリーの周りの一角は洗練されたショップなどでいっぱいだが、その外回りは古い町並みで、その印象の差が大きい。古い町並みには何か取り残されているようなわびしさが漂っていた。これからの日本の都市にはこのようなアンバランスな風景が増えてゆくのだろうか?

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 夕方に東京駅に戻ると、改修された東京駅がライトアップされており、多くの人が写真を撮っていた。確かにきれいな外観になっていたが、高層ビルの中に明治時代の建物があると、対比が強すぎて違和感を感じる。まわりに古い建物がいくらか残っているとこの違和感は緩和されたかもしれない。欧米では新しいビルをつくっても、外観は古い様式を採用して、街並みとしての統一感を出しているように思う。今後の都市設計では街並みの統一感を作ってゆくことが大事なのではないか?

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 9月2日から5日までバスツアーに参加した。2度目で20年ぶりの北海道。
 千歳空港→旭川→層雲峡→網走→知床→摩周湖→釧路湿原→阿寒湖→富良野・美瑛→千歳空港
 いろいろな観光先が盛り込まれている忙しい旅であった。一度にたくさん見たいというのが大多数のお客の要望なのか?バスの中ではみな疲れて眠っている。バスガイドだけが元気で説明し、なかなか面白いことを教えてくれた。

 移動距離約1200kmのバス旅行だった。東名・名阪トータルの距離の2.3倍もある。狭い名古屋市に住んでいる自分には、広々とした石狩平野、十勝平野を走っていると、その広さが心地よい。遥か地平線近くまで平地という表現も大げさでないところもある。多くの人々が森を切り開いて牧場や農地にした。屯田兵や開拓団などが長い時間をかけて作り上げた。網走刑務所の囚人が作った道路もあった。二人一組が鎖でつながれて、極寒の中で作業し死亡した囚人を弔う鎖塚が痛ましかった。


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 その他、印象に残ったものを列挙してみると、長い直線道路、雪の中で歩道と車道を識別する特徴的な矢印指示版、零下30度にもなる道央、瓦や樋のない家、大きな石油タンクが家ごとにあり、1年でドラム缶を平均13本も使うということ。広い農地を持つ裕福な大規模農家(年収1000-2000万円、しかし、トラクターなどの高価な農機具が負担)。牧草ロールや収穫した玉ねぎの箱が農地に沢山おいてある。乳牛一頭は200-300kgもある牧草ロールを年に20個くらい食べるそうだ。その牧草を育てるには100m四方の広さの牧草地がいる。裕福な漁民(知床での固定網、一回で漁獲5000万円)。

 広々と見渡せる平原、大雪山系の山々(十勝岳、トムラウシ、旭岳)なども印象的であった。また青いオッホーツク海の美しさ、ハマナスの花、大型淡水魚イトー(かなやま湖)なども印象的であった。熊や鹿が頻繁に道路沿いなどに出ることなども北海道らしかった(熊は見かけず、エゾシカとタンチョウヅルは見かけた)。アイヌコタン(集落)に初めて行き、劇場で民族舞踊などが観れたのも印象に残った(演出が少々単純)。コロポックル(アイヌの伝承に登場する小人)の木彫を一つ買った。下記の写真は、大雪山系の山々、網走ー小清水原生花園でのハマナスの花、オッホーツク海、知床5湖である。

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中欧8日間の旅

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旅行社:名鉄観光

全体感想:
 中欧の世界遺産を見る旅である。
 1日目:ルフトハンザ航空:セントレア(中部国際空港)→フランクフルト(ドイツ)→プラハ(チェコ)
 2日目:以後バス移動:プラハ→カルシュタイン城→プラハ
 3日目:プラハ→チェスキークリムロフ(チェコ)→ザルツブルク(オーストリア) 
 4日目:ザルツブルク→ハルシュタット(オーストリア)→ウィーン(オーストリア) 
 5日目:ウィーン
 6日目:ウィーン→センテンドレ(ハンガリー)→ブタペスト(ハンガリー)      
 7日目:ルフトハンザ航空:ブタペスト→フランクフルト→
 8日目:→セントレア

 中欧は歴史的にも、文化的にも、ヨーロッパの中心部であり、この部分には大戦による破壊も少なく、古き良きヨーロッパの風情が残っている。この地域はほとんど平野であり、広大なトオモロコシ畑の中の高速道路をバスでひた走る旅であった。
 チェコはスラブ民族の国である。首都プラハは14世紀には神聖ローマ帝国の首都であったし、中欧最初の大学が作られた文化都市である。工業技術に優れた伝統があり、チェコは20世紀にはソ連邦に属し兵器や航空機製造の先端技術を持つ国であった。
 オーストリアはドイツ民族の国であり、19世紀まではヨーロッパ大陸ではイギリス、フランス、オーストリア、プロイセン(ドイツ)、ロシアの5大国の一つであった。その首都ウィーンにはハプスブルグ家を繁栄させたマリア・テレジアが住んだシェーンブルン宮殿がある。ウィーンは洗練された国際文化都市である。
 ハンガリーはアジア系遊牧民のマジャール人の国である。国王がキリスト教に改宗してキリスト教国になった。中世ルネサンスに首都ブタペストは繁栄し、多くの優れた建造物が建てられた。ブタペストの町に入ると、ローマの遺跡が目に入ってきた。ローマ人の進入の北限はドナウ川までといわれている。ハンガリー、オーストリアには遺跡はあるがチェコ(プラハ)には無い。
 ヨーロッパの先住民族で独自の青銅器文明を発展させた民族にケルト人がある。現在の中欧の主な都市は、小高い丘陵地帯の上に作られたケルト人のオッピドウム(城塞都市)の跡に作られている。今回訪れたプラハ、ザルツブルグ、ウィーン、ブタペストがそれである。またハルシュタットはケルト人のハルシュタット文明(墳墓遺跡)として有名な地域であった。

 以前から行ってみたいと思っていたベトナム。急に条件が整い行くことになった。HISが企画したアンコール(カンボジア)とハノイ(ベトナム)へのツアに参加した。
 ユニクロのジーンズはガンボジア製ということである。それぞれどんな国だろうか、楽しみである。8月の28日に名古屋のセントレア空港を出発。

 ハノイ空港に着陸直前に窓から見た景色。広い森と大きな川が見える。川の水は赤い泥で濁っている。

 ハノイ空港から約1時間でシェムリアップ空港(カンボジア)へ。ここはハノイよりホーチミンに近い位置である。外は夕闇だが、名古屋より蒸し暑い。カンボジア風の空港の屋根が異国情緒をそそる。

 シェムリアップはアンコール遺跡観光の拠点。小さな町で、大きな建物のほとんどが観光ホテル、レストラン、ではないか?舗装していない道路わき部分の土が赤いのがめずらしい。二人乗り三人乗りの小型バイクが走っている。

 一泊して2日目はアンコール遺跡群の観光だ。まずアンコールトムから観る。入場門にいたる途中の池端で背中にこぶのある白い牛が数頭放牧してあるのを見かけた。池で沐浴している人もいる。数百年も昔の世界に入り込んだような気分だ。入場者は顔写真つきの入場券を一人ひとり首にかけさせられた。遺跡から石仏などの盗難が絶えないためらしい。

 南大門から入るのだが、門への濠にかかる橋の両側にヒンズーの神々と阿修羅の像が一列に並び大蛇(ヒンズー教の蛇神、ナーガ)の胴体を綱引きのように引っ張っている。まずこの異様な石像群とその発想に度肝を抜かれてしまった。

 寺院の建物、彫刻は12世紀後半の建造らしい。全般的に造りが細やかで、石像の顔の表情が穏やかで暖かい。特にアプサラ(天女)の像は魅力的だ。またユーモアあふれた像もある。この地域の当時の人々の心の豊かさがあふれている。

 石を使った建築物や石像の風習や技術はどこから伝わったのだろう?やはり同様な石造りの建築物が多いインドからに違いない。インドはさらには遠くエジプトやローマから技術を学んだに違いない。ではなぜ日本には石造建築が作られなかったのだろう?山国だから石は十分にあるのに。

 一方、アンコールワット(12世紀初期に建造)の中では物乞いの女性が目立った。裸足の子供が、シルク製品、果物、民芸品などを売りにまとわりついてくる。ポル・ポトによる国民虐殺時代終焉からまだ10年しかたっていない。

 夕方はプノンパケン(沢山ある寺院の一つで高さ60mのプノン・パケン山の山頂にある)で夕日を見る。寺院の頂上から10世紀に作られたという人工湖(西バライ)が見え、日没の太陽が反射して美しいという。寺院に入ためには勾配が70度近い急階段を登らなくてはならない。登り下りするのは面白かったが、このような急階段にする理由が不可思議。

 人工湖などもあり灌漑は十分で3毛作もできる環境なのに、今は人々が怠け者になり1毛作が多くなったという案内者の言葉が印象的であった。山の頂上まで登り降りする像のタクシーも興味深かった。急坂を下りてくる像の機敏さ、スピード、しなやかさに驚いた。

 夕食はアプサラダンスを見ながらである。高校生くらいの年齢の訓練を受けた男女が踊っている。衣装が華やかですばらしい。手や指や足、胴を使った細かい表現がエキゾチック。アプサラダンスではないが農民の若者の踊りをイメージした創作ダンス?は若々しく活発でよかった。カンボジアの若者の意気を見せてくれた。

 夕方にハノイに飛ぶ。ハノイ空港からハノイ市内のホテルに行く道のりでキャノンとかパナソニック、LGなどの広告灯が夕闇の中に光り輝き、カンボジアとは違う工業都市の雰囲気が迫ってくる。
 
 3日目は、製陶で古い歴史を持つハノイ市郊外のバッチャン村を経由してハロン湾のクルージングにマイクロバスで向かう。市内はベトナム名物のバイクの大群が道路を埋めている。大半は若者が2から3人で乗っている。公共交通機関が無いに等しいからこうなる。

 郊外に出ると、バナナの果樹園が続く。農夫が水牛をつれて歩いている。赤毛牛の放牧場もある。ただ柵が無いので隣家の庭先で糞をしてゆくこともあるそうだ。時々見られる池にアヒルの大群が養殖されている。珍しい風景だ。

 郊外の住宅はみすぼらしいとはいえない。規格化された赤い屋根で2から3階建てのレンガ造りの家である。ベトナム戦争の後で作られたらしい。地震が少ない土地柄のために、こうなった。村の空き地に時々大量のレンガが積んである。家を作る前に集めておくらしい。郊外の建物は皆似たような外見である。ドイモイ政策で農地や家は私有とのこと。
 村の中の道路を通る際に、案内人がベトナムの古い時代の村の特徴について講義してくれた。村は一つの生活独立体で生産から法律、裁判までを治めていた。その形態的構成は、寺、廟(びょう・・・祖先の霊を祭るところ)、祠(ほこら・・・神を祀る小規模な殿舎)、亭(ベトナム語でディンと発音・・・村落祭礼と,それを執り行う共同集会所)、三日月形の池などから成り立っているとアーさんが説明。しかし、それらを見る機会は無かった。中国でも日本でも古い時代には似たようなものはあった。中国、韓国、日本、ベトナムなどは同じ中国文化圏であることが良くわかる。

 バッチャン村に立ち寄る。古い歴史をもつ焼き物の町だが、今は土は他所から持ち込んで、製陶、デザイン、絵付けなどが中心になっている。観光化したきれいな町並みだ。大きな傘の木があった。花瓶を買った。

 ハロン湾への道は一部を除いて立派に舗装してある。道路沿いの風景は、広い水田地帯が続く中で時々町が現れる。どの町も道路沿いに同じような店がくっついて並んでいる。皆が道路沿いの土地を求めるので間口が狭くなってしまったのだそうだ。バイクの修理店、ケータイの販売店、衣服店、陶器店、・・・。少ないと思ったのが生鮮食品店、まれに果物を売っている店もあった。大体が農業地帯なので米とか野菜とか、肉類は自給自足なのかもしれない。店の裏がわにその町のいろいろな機能が用意されているようだ。たとえば、畑や食用の動物の飼育場所とか、・・・。
 田舎で特徴的な建物は、間口の狭い3階建ての住居である。食パンのような薄い家である。赤い屋根とかカラフルなベランダを持った家であり、規格化されている。規格外の住宅もある。外国人の所有か?


 鉄道も見かけたが、通勤などに使うようではなく、石炭やその他の何かをたまに運ぶようなのんびりとしたものである。車両が走っているのを見かけなかった。レンガを焼く工場群、露天掘りの無煙石炭鉱山、製鉄工場と煙突などが目に入る。


 ハロン湾に近づくと、中国の桂林のような山が見えてくる。海の桂林といわれるのがハロン湾である。きれいな観光地化された湾である。遊覧船が何十隻も浮かんでいる。

我々は10人程度で一隻を占領し(数十人は乗れる)、デラックスな船旅となった。デッキで心地よい風に吹かれながらうたた寝したのは気持ちが良かった。

船上の食事はうまくはなかった。小船が近づいてきて、小学生と思われる女の子が手にバナナを持って飛び移ってきて買ってくれという。すばしこい身のこなしに驚いた。

 4日目は再びマイクロバスでハノイに帰る。途中で2箇所、売店に立ち寄る。ほしいものは少ない。ベトナムの少女たちが絹の刺繍を実演し製品を売っていた。10年もやると目が悪くなって、仕事ができなくなるほどの細かい作業らしい。

 午後にハノイ市内に入ると、バスはバイクの大群に囲まれる。建国記念日であり、休日なので人が多く町に出ている。ベトナム共産党の旗が至る所にはためいている。昼食後に徒歩で観光に出かける。

 最初にホーチミン廟、一柱寺、大教会、ホアンキエム湖、文廟などを見学。面白かったのは文廟。科挙制度の時代の大学で、国民の中から優秀な人物を官吏に登用するための受験と修練の場。ベトナム人民が学問に優れた人物を重用すること、勤勉を美徳とするインテリジェントな国民であることがわかる。


民族音楽演奏も見せてくれた。両手をたたいてその音を竹筒に共鳴させて音階を発生させる楽器などが珍しかった。


 案内人の言うには、同じ漢字文明の下にある日本とベトナムの違いは、日本が漢字を借用しているのと対照的に、フランスに占領されたことが契機になってアルファベットをベースとするベトナム文字を作って漢字から決別したことである(ベトナム人は文字を作ることができると表現)。この価値は自慢してしすぎることは無い。このために識字率は非常に高い。

 その後、旧市街を通って水上人形劇場まで歩くゆく。バイクや自動車が流れる道を皆が横断してゆく。複数人が横断するには横一列で止まらずに歩くことである。2日前に急に走った日本人がバイクに轢かれて死んだらしい。水上人形劇はむかしベトナムの農民が水田で楽しんだというカラクリ人形であるが、水上での劇であること、大変にコミカルに作ってあることなどでユニークである。しかし、単調で途中で寝てしまった。


 今回の旅は東南アジアの新興国を知る上で、大変有意義であった。カンボジア(クメール人・・・やさしい)とベトナム(キン族・・・中国系・・・すばしっこい)の国民性の違いなどがわかった。感じたのはこの地域の自然の恵みの豊かさである。この豊かさは住む人々のやさしい明るい性格を造り、アンコール遺跡のような大規模建築を可能にした。しかし、その豊かさが災いして現在は世界の進歩から遅れてしまっている。たとえば、両国とも自由主義の国ではない。なんとなく政治体制の硬さを感じる瞬間も多かった。早く政治体制を民主化して大きく発展してほしいものである。

 
 

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