社会現象の最近のブログ記事

 これほど、世の中が変化して来ても日本の若者たちは決起しないのか?眠っているのか?
 

 10年以上前から、韓国は経済のグローバル化を実行してきた。日本は奢りもあってか、グローバル化に熱心でなかった。その結果はどうか? 重要な産業分野で追いつかれ抜かれてしまった。日本は最近の嫌韓ブームで、youtubeなどでは韓国の悪口ばかり。こんなことでは、日本は韓国にどんどん差をつけられるに違いない。10年前に竹中平蔵教授は、韓国との間に海底トンネルをつくって、共存共栄圏とすべきだといわれていたが、現在は全く逆の方向に進んでいる。日本人よ、目を覚ませ!

 人の一生は長いけれども、振り返ってみると、時間の流れはまさに暴力的だ。細かいことに囚われていると、大したこともできずに歳月だけがどんどん過ぎ去ってゆく。

 久しぶりに映画を観に名古屋伏見にあるミリオン座へ妻と二人で出かけた。どちらかが50歳以上の夫婦二人連れなら二人で計2000円とお得であった(一人なら1800円 )。 座席数が100くらいの小さな劇場であったが、席数の割りにスクリーンが大きく、座席とスクリーン間の距離が近いので、観やすい。

 「Son of God」という題名でイエス・キリストの生涯がヨハネ福音書に沿って描かれている。キリストを演ずるディオゴ・モルガドのイケメン振りが話題となり、米国では公開以来3週連続でトップ10入りしたそうだ。福音書に忠実に描かれおり、十字架にかけられて死ぬまでのストーリーがコンパクトにまとめてある。そのため迫力のある映画になっている。

 一方、福音書を普段から読んでいる人ならストーリーや個々の演技の意味が理解できても、福音書を読んだことの無い人には筋がつかみにくい場面があるのはコンパクト化のマイナス面であろう。

 約2年間、記事を書くことを休んでいたが、再び書きたいという意欲が沸いてきたので、始めることにする。 はたして記録のしがいがある内容の文章が書けるだろうか? しばらく続けてみよう。

 現在の日本には難問が山積している。それなのに、いつまでも結論の出ない議論ばかりしている印象がある。新聞の記事やテレビ討論などを見ていて、いつも歯がゆくなる。何故なら、議論が深まらないからである。議論のべースになる各種のデータに関しても、議論する人毎に異なり、データの信ぴょう性について、検証されることは少なく、言うだけに終わっていることが多い。これでは何度討論をしてもらっても国民は決断できない。新聞や放送などのマスメディアは、問題の整理、詳細データの調査などを責任を持って視聴者の前に示してほしい。
 浅い議論ばかりして、何も決まらないままに時間だけが過ぎてゆくような状態では、そのうちに自分勝手に暴走する政治家、官僚が現れて、第2次世界大戦に巻き込まれたかっての日本の二の舞をすることになる。

  サリンの被害者代表の人物がテレビで話していた。
 「オウム真理教の教理は非常にわかりやすい。
 しかし、教理に反すると地獄に落ちるという強迫がすさまじかった。
 だから、純真でスマートな信者は容易にマインドコントロールされてしまった。」

 宗教は人をマインドコントロールしやすい危険な側面がある。
 それを自覚して、狂信に陥らないことが重要だ。
 真の宗教は神の愛を説き、人を強迫せずに許す。

再びブログを開始

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 10年以上使い続けた自宅サーバが約10か月前にダウンして、しばらく放置してあったが、気を取り直して新しいコンピュータの下で再構築した。また、以前と同じように世の中のいろいろ気になる事象について、自分の考えをそこはかとなく書き留めてゆきたい。この間にいろいろなことが起こっては通り過ぎていった。北関東大震災と原子力発電所の爆発による未曾有の放射能被害、中国をはじめとするアジアの大発展と日本の相対的没落、日本社会の不活性化・・・などなど。

 最近の決められない日本の政治を見ていると、橋下大阪市長も言っているように、日本社会は社会システムの大々的な再設計が必要な時期に来ていると感じる。明治維新、敗戦などで働いた外的強制力が日本を変え、その後の日本の発展の原動力になった。しかし、いよいよ戦後から続いてきた仕組みが現代社会に合わなくなった。そのために、しなくてもよい苦労を国民が強いられている気がしてしょうがない。

 社会システムの大々的な再設計を成し遂げるには、今の政治家に任せていてはだめであろう。明治維新の先人たちが新しい社会をイメージし、新しい言葉を定義して、日本語を作り直すところから始めたように、目指すべき社会のイメージ、新しい概念や、言葉の発明から始める必要がある。日本再設計国民会議のようなものが必要になる。国家戦略会議では何をやるのか不明確である。日本再設計であれば、具体案がいろいろ出てくるに違いない。
 

 今日、名古屋市の金山にある都市センタービルの11階で開かれている[戦争に関する資料館調査会の「収蔵資料展」](平成23年1月12日(水)~2月6日(日) )を見てきた。戦時中の遺物、たとえば赤紙召集令状、出征までにやるべきことの手順指示書、千人針、疎開地から母親に出された小学生の手紙、食料の配給手帳、少年飛行隊員の勧誘ビラ、不発弾、などなどが展示され、当時の緊迫した生活が伝わってくる。中でも一番衝撃的だったのが、壁に架けられていた名古屋市中心部の空襲後の焼け野原の写真である。ここまで徹底的に破壊尽くされたのかとショックを受ける。11階には名古屋市の現在の町の姿が1/1000の模型で常設展示されているので、それとの比較でその破壊の猛烈さが解る。政治家や国民の長期にわたる判断ミスの積み重ねがこのような悲惨な結果を招いてしまったのだ。
 現在日本は再び困難に直面しているが、歴史に学んで、再び失敗を繰り返さないようにしたいものだ。

 過去最高の映画館入場者数を得た「アバター」を抑えて第82回アカデミー賞を得た「ハート・ロッカー」を観に出かけた。アカデミー賞映画にもかかわらず名古屋地区では現在ベイシティのシネコンでしか上映していない。ウィークデーのこともあるが、観客は10人程度。これも奇妙な話で、興味をそそられる。

 観た第一印象では、最後まで画面にひきつけられた内容のある映画だということ。イラク戦争で爆発物処理班の若き兵士3人の38日間の任務を追った映画である。数多くの処理の任務の際に起こるいろいろな出来事を3人の兵士の人間性を追及しながら見せている。見せ場の中心は、イラクのテロリストがここまでやるかと戦慄を感じるほどの爆発物の仕掛けと攻撃の中で起爆装置を解除するのに成功したり失敗したりする場面である。そういってしまえば単なる娯楽映画になってしまうところを、イラクという占領の現場での緊迫感、現実感の中で兵士の恐怖心、使命感、絶望感を兵士の人間性を絡めて描いてゆくところに引き込まれる何かがあった。
 
 キャスリン・ビグロー監督は爆弾処理を一人で担当する軍曹(二人の支援要員と三人で行動)が、平和な家庭の父親、夫としての幸せを棄てて、死と隣り合わせの爆発物処理に生きがいを求めて、麻薬患者のようにのめり込んでゆくさまを描き高かったのだろう。
 しかし筆者は、万が一の死をも受け入れて爆弾処理に熱中する軍曹の孤独と孤高と、その中でイラクの一人の少年に示す人間味に何か惹かれるものを感じた。そんな人間が存在しうるのか?十字架に張りつけられて死んだイエスキリストのような人間(?)像と重なって感じられた。ドラッグ患者として切り捨てるのはあまりに酷ではないか?キャスリン・ビグロー監督は無意識にそのような人間を描いてしまったと思う。

 ジェームス・キャメロン監督の最新作「アバター」を観にミッドランドスクウェアまで出かけた。3D映画やアバターという設定に興味を感じたし、10年近く前に見たアイマックスシアター(注1)の大画面(上下も広い)の3D映画からどれだけ進化したかを知りたかった。

 注1:サントリームジアム天保山(地下鉄中央線大阪港駅下車)にある3D映画館

 「アバター」は3D映画で実俳優とCG俳優(ナヴィ)が戦う映画である。アバターとは化身の意味で、実人間が仮想空間で別の人物(化身)になって生活する。映画では主人公が仮想空間ではなくて実空間で実体のある化身として活躍する。このアイディアは面白い。

 あらすじは、地球の自然を破壊した人類がナヴィという未開の人類(人間の2倍くらいの身長)が住むパンドラ惑星に軍隊を送る。地球軍は先住民のナヴィから資源を奪おうと攻撃する。しかし、最終的には地球軍のやり方に反感を持った地球軍の兵士の一人がナヴィ(化身)となり、ナヴィのリーダになって地球軍を追い払う。このあたりで感動的な場面がある。
 
 さて、内容の感想を述べたいと思う。アメリカ人が好きなSF的戦争場面の多い映画であるが、米国人が心の負い目として持っている心情をすべて表現したような内容になっている点が興味深かった。第一に、米国大陸の先住民たるインディアンから土地を奪って辺地に追いやった罪悪感。第2にベトナム戦争などで巨大な兵器と軍事力で住民を殺した罪悪感。第3に、そのような過去から離れて自然の中で人と人とのつながりを強く持って平和に生きたいという願望。それらをすべて盛り込んだSF映画に仕立ててある。エンターテインメントとしては成功していると思う。

 最後に、3D表現の効果は期待はずれであった。2D版を比較して観ていないので正確には解らないが、通常のスクリーンを使っていることが原因ではないか?最後部の座席で見たことが不利だったかも知れない。画面の中に観客が取込まれてしまうようなアイマックスシアターの大画面(上下も広い)で観る3D映像と比べると迫力はおちる。3D映画の真骨頂は観客と画面の相対な位置関係と大きさを工夫しないと得られないと思う。3D映画をメジャーにするにはスクリーンや座席を変えねばならない。

 名古屋市天白区に残っている緑の山が、次々と宅地になっていっている。私有地の山々からは遠からず緑は消えてゆくだろう。今ではまだ見られる野鳥も次第にその姿を消してゆくだろう。野鳥が姿を消すということは将来は人間にも住みにくい環境に変化してゆくということだ。
 ここは政治の力で緑の消失にストップをかけなければならない。名古屋市に残る広大な緑地である相生山緑地にそれを分断する貫通道路が名古屋市土木局によって作られようとしている。ここにいたってもまだ、人間は緑の本当の大切さをわかっていない。分断してしまえば、森の乾燥化が進み森の豊かさはどんどん減少してゆくことは明らかである。(写真は宅地化や道路などで侵食されつつある相生山緑地とオアシスの森)

 新任の河村たかし市長は、貫通道路の建設に反対の市民運動に鑑みて、80%程度建設の進んだ工事をあえて停止させている。英断である。市民は市長をバックアップして工事を完全中止にして森の豊かさを保存させなければならない。森を疲弊させることではなく、森をいっそう豊かにする方向に資金を投入することが、名古屋市の未来を豊かにすることにつながる。
 今、一番問題なっているのは、朝の通勤時間帯に野並交差点で発生する渋滞である。野並駅から地下鉄に乗り換える人たちが利用する市バスを時間通り運行させるために、一車線をバス専用レーンにしていることがますます渋滞をひどくしている。この交差点は東西方向だけでなく南北方向も交通量が多いので、いっそう渋滞が発生しやすい。バス専用レーンをやめれば渋滞は減少すると思われる。桜通線を野並駅から徳重まで延長する工事が進行しているので、延長線上の新駅にバスから地下鉄への乗り換え駅を振り替える事が解決になるのではないか?
 また、交通渋滞は時代の変化から予測すれば減少傾向にある。人口の減少、小型車の比率の増大、地下鉄の延長によるマイカーから地下鉄への乗り換えなどで交通量は今後減ってゆく。また、交通量の状況を看てリアルタイムに車線の本数の切り替えをするインテリジェント道路なども可能性がある。知恵の無さのために市民の貴重な財産である緑の森を傷つけてしまっては名古屋市民の恥辱ではないか?すでに投資した80%分の建設費など緑を失うことに比較したら安いものである。

 昨日のぞみ号(下り、東京発20時40分)の13号車に乗って名古屋まで帰ったが、乗り心地が大変に悪く、恐怖すら感じた。最高時速に近いところで走行中に、しばしばガクンガクンと前後に強く振動するのである。制御系の調整不良と思われるが、こんな整備不良から新幹線の大事故が発生する可能性があると思った。いままで大きな事故も無く運転されてきた新幹線ではあるが、昨日のような車両に乗せられると、そんな心配が頭をもたげてきた。JRは最高速度の追求ばかりでなく、走行安全性の追及をもっとしっかりやって欲しい。

 新聞放送などのメディアは国の将来に対して大きな責任を負っている。戦前の新聞や放送は政府や軍部にべったりで国民を戦争の悲惨に導いた事実がある。国民に対して大変な影響力を持っているのである。現在は政府のべったりというよりも、むしろそれらに対して批判的な報道に満ちているが、それが必ずしも良いとは限らない。あまりに批判ばかりの記事は世の中に害悪を及ぼしている可能性もある。また、世の中の色々な危機(例えば格差社会の悲惨さ、日本の衰退傾向、恐ろしい伝染病や医療の衰退の問題、・・・)を強く報道するだけの現在のメディアも困る。国民を萎縮させるだけで、問題に打ち勝とうという力が国民の中に沸いてこない。政府のやり方の良し悪しだけではなく、国民が自ら立ち上がらなければ国は良くならない。
 NHKにも問題は色々あるが、この困難な時代でも工夫をして成功している例などを放送することがある。これは大変に良いことと思う。自分たちも何か工夫してみようという元気が沸いてくる。一方、ある新聞は(良い記事も多いが)新聞を読みたくなくなるほど、不安な絶望的な報道記事にあふれている。これではいくら事実を知らせるのが新聞の役目とは言いながら、国民を意気阻喪させる。冷たい正義感ではなく、創造的で、読者を元気にする記事で紙面を埋めて欲しいものだ。それこそメディアの重要な責任ではないのか?

 日本の政治家にとっては、国益よりも自分の党の利益の方が大事なのではないかと最近特に感じる。特に野党いたっては、政治家や役人の小さな不品行(犯罪)を長時間にわたってあげつらことが、国の将来の戦略を工夫し、実行できるようにする努力よりも大切だと思っているような気がする。そのような犯罪は司法の手にゆだねるべきなのに、つまらない犯罪の追及に国会の貴重な時間を割き、その代わりに重要な国政課題が何時までも議論されずに先送りされている。その間に国財政は悪化し、国際的な信用も低下して行く。そんな様子を見ているのは国民として耐えられない。
 政治家として成熟していないというか、プロとしての基本ができていない気がする。企業ならばこのような経営者、社員ならば窓際においておくしかない。役に立たないからである。
 国の健全な発展、世界の平和のためには、そんな議論にうつつを抜かすより、地方や海外に出かけて行って、当事者と語り合い、現状を分析し、国民の前でデータを下に国としての戦略を論ずることの方がずっと大切である。議員会館の机上で空虚な議論に時間を費やすのではなく、現場に出かけて行って、当事者の声を聞くなど行動こそ日本の道を誤らない態度である。
 マスコミも法律違反をした悪人の処罰を騒ぎ立てるよりも、それは司法に任せて、もっと重要な問題に国民の目を向かせて欲しいものだ。例えば、民主党が消費税のアップ無しに国の財政を立て直せるといっているならば、その仕掛けを国民が理解できるように徹底的に国民の前で討論させたらよい。そのような議論の中で民主党の案が空論であることが解れば次の選挙で没落してしまうだろう。このような肝心の問題に切り込まずにくだらないバラエティ番組ばかりやっているようなマスコミ(特に民放)ならば放送権という既得権益を取り上げることを考えねばならない。日本の国民はマスコミにも政治家に甘すぎるとおもう。こんな状況では日本の国力はアジアの新興国にどんどん抜かれてしまうであろう。

 最近、日本の将来について憂えることが一杯ある。
 やらねばならないことが解っているのに、手が打たれずに、ずるずる先延ばしにされている。ハイパーインフレを起こすかもしれない国の膨大な借金に歯止めがかからない、出生率の低下が止まらない、医療・介護現場の荒廃、格差問題(ワーキングプア)の放置、Co2削減に画期的な対策が取れない(西独では太陽電池利用が急進しているのに日本は停滞)などなど。国の指導層の実行力のなさは目に余る。国民側も些細なことに興味が集中してしまって、迫り来る大問題に関して議論が盛り上がらない。このような状態がいつまでも放置されるのも、政治、経済、社会などの監視役であるべきマスコミがまったく機能していないこともある。(マスコミは自分の責任を認識しているのか?マスコミが危機意識を持って国民の前に実態を明らかにし、政治家、官僚を呼んでカメラの前で国民と議論させ世論を盛り上げるべきである。政治家批判だけではだめではないか?)

 もっとも不安なのが日本の首相である。あまりにも未熟で、稚拙な首相のように思える。その血筋に偉大な政治家がいたというだけで、首相に担ぎ出す取り巻きが居る。彼の実績は何であったのか?2世政治家が多すぎる。こんな自民党には希望の持てる日本を実現させる能力がない。このような党に日本を託すことはできないのではないか?民主党はどうか?民主党は未熟な党かもしれないが、一度日本を託してみたらどうだろうか?変えること自体に価値がある。新しい展開が出てくる可能性がある。それで日本がすこしぐらいつまずいても、その後から出てくる新しい伊吹に期待できる。
 会社でも、リーダは一定期間勤めたら、いやおうなく新人に交代するというメカニズムがあり、ベテランに比べていかにも頼りなげに見えた新人でも、ちゃんとやって、古い首脳陣ができなかった改革をなし遂げている。いや、このようなメカニズムがあるからこそ、会社の没落が防げられているといえる。しがらみのない思考でゼロから取り組みなおすということが如何に重要か、国民はもっと認識すべきではないのか?

 今朝の民放テレビで、佐藤内閣時代に一部の旧厚生省官僚(担当部局は旧軍出身者が主導)が内閣の了解を得ずに(?)、それまで合祀していなかった太平洋戦争のA級戦犯を靖国神社に勝手に合祀させたらしいことが議論されていた。それを国民には知らさないでおくように指示した文書が国会図書館から情報公開された(このような良心が国会図書館や関係者にあったことは本当にうれしい)。このように国民に隠して勝手にやる姿勢こそが国を誤らせる。大いに糾弾して真実を明らかにすべきと思う。マスコミの存在価値が試されている。合祀が正しい正しくないを言うのではない。国民の目に隠れてこのような大きな判断を一部の人間が勝手にやってしまったことに恐ろしさを感ずる。日本はそんないい加減な国なのか?

硫黄島からの手紙

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 クリント・イーストウッド監督(ワーナー・ブラザーズ映画、ドリームワークス・ピクチャーズ)の「硫黄島からの手紙」を観てきた。戦争を戦った日本人個人の心に視点を置いた映画であり、素直に描かれているという印象だ。2万人以上の日本兵が死んだ戦い自体のスケール、緊張感、残酷さの描写は、とても描ききれてはいないと思ったが、そこにこの映画の視点はない。米国留学経験があり個人的に米国に愛着と尊敬を持っていた栗林中将がその米国との殺し合いの先頭に立たなければならなくなる。何故こんなことになってしまったのか?それを考えさせられる映画だった。
 観ていて強く感じたのは、現在でも国民の一人ひとりがよほど注意していないと再び同じことが繰り返されるに違いないということ。日頃の自分自身の言動にも注意し、マスコミ人、企業人、政治家の言動によほど注意して批判してゆかないと、世の中というものがまた個人をそのような残酷な流れの中に巻き込んで行く。

 最近の社会ニュースを読んでいると、日本の子供たちが精神的に小さな世界に閉じ込められて、広い世間を見ることができないでいるような気がしてならない。現在ほど世の中が色々な面でダイナミックに変化をしている面白い時代は過去になかったのではないかと思うのに、また、子供たちが将来やるべき多彩な仕事が山積していると思うのに、それらを認識できないでいるのではないか?われわれ大人たちがその面白さを子供たちに納得させることができていない。

 日本の住宅の物理的な耐用年数、即ち寿命は全国平均で約40年前後というデータがあり、また住宅への投資や建て替えの周期は23~30年程度という研究結果がある。欧米の住宅への投資や建て替えの周期は80年から140年というデータがあり、これと比較すると、日本の場合は極端に短い(参考:日本建築学界 「地球環境問題への建築学会としての取り組みと展望」)。 このために欧米では一度家を作れば子供から孫の代まで住み続けられるのに、日本では一生の間に最低一度は家を建てねばならない。住宅への出費が大きな負担になり、生活の質を高める他の部分への出費ができないという問題点がある。具体的には、スウェーデンでは多くの人がセカンドハウスやヨットを持楽しんでいるのに日本では稀である。
 我が家もまったく同様なことになっている。建築後33年になるが、17年目に一部リフォームしたにもかかわらずいろいろな要因で、建て替えを考えなければならない状況になっている。33年間のいろいろな時点で生活環境の変化に合わせて、リフォームを含めて家に投資をしてきたため、使い勝手の良い家になってはいるが、その後耐震基準が見直され、33年前の基準では震度5強(東海沖地震で名古屋地域に予想される震度)では補強しなければ倒壊する可能性も出てきた。また断熱特性が悪いので空調費用も多く、冬には寒い脱衣室やトイレでのヒートショックの危険も出てきた。 
 なぜこのようなことになってしまったのか?日本の文明度が低かったことに尽きるのだと思う。33年前に日本が経済大国になりつつあるときに、国の持ち家政策にそって私を含めて若者が家を作ったが、資金的余裕もなく、高性能住宅に対する工務店の知識も低く、質の低い家を作ることになってしまったのだ。これからは100年使える家を作り、住宅市場で自宅が高い資産価値を維持できることが目標になる。

がんという病

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 がんは長年の研究努力にもかかわらず、ここ5年くらいは死亡率が低下していないという中々手ごわい病気だ。脳梗塞や心筋梗塞は病気が発症しても、何とか完治できるケースが多いように感ずる。一方、がんは罹患しても自覚症状が無い場合が多く、(1年から2年後に)症状が出たときには進行がんになっていて、治療不可能というケースがしばしば発生する。このためわれわれは年に一度は人間ドックに入って検査を受け、完治の可能性が高い早期がんのうちに治療が開始できるように用心している。なにせ、日本人の二人のうち一人が一生のうち一度はがんに罹っている時代だ(参考文献:愛知県がんセンターNEWS 第2号、平成14年1月1日発行、大野龍三)。しかし、ここに問題が隠れている。特に人間ドック専門機関は受診者が選定した検査しかしない。定番の半日検査コースというのが一般的で、多くの人はこれを毎年受けている。このようながん検診を受けていたのにがんで死んだ人の例を知っている。受診者はがん検診を受けているからと安心してしまい、実は検査を受けていない部分でがんの発症の可能性があることを忘れてしまいがちである。これがかえって早期がんの発見を遅らせていることになっていないか?小生の場合は前立腺のPSA値が危険範囲に入りかけていたのに気がつかなかったし(幸いにも前立腺がんではなかったが)、大腸炎になって初めて大腸のレントゲン検査を一度も受けていないことに気がついた。半日コースではPSA値の測定と大腸レントゲンは検査項目に入っていなかったためである。大腸がんは3大がん(胃がん、肺がん、大腸がん)のひとつであるのに、半日コースでは便の潜血検査しかしない。しかし、潜血検査でも検出できない大腸がんは全体の3割もあるそうだ。このような知識を人間ドックでは教えてくれないのは問題だ。

日本の街の景色

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 Voice(雑誌)の2006年2月号でリチャード・クーさんが言っていることにまったく同感だ。日本人は感性豊かで繊細な美意識を持つ民族で、歴史的にも世界的な美術工芸品を育ててきたと自慢する向きがある。それならば、欧米の町並みのきれいさと現在の日本のそれを比べてみてほしい。日本の町並みの多くが繊細な美意識を持った民族ならば造るはずの無い、雑然としたコンクリートジャングルである。いったいどうなっているのか?私はその根源の一端は腰の重い(抵抗勢力的な)役人にあるのではないかと考えている。例えば電柱と電線が織り成す、美意識のかけらもない蜘蛛の巣のような電線工事をどう見るか?よくもこんな汚らしい工事ができるものかと、私も技術者の端くれとして、それをやらせた技術監督者のセンスが腹立たしい。その他、美意識にかけらも無い看板のデザイン、色など、これもひどいものが多い。看板屋はデザインの勉強をしたことが無いのか?このために、いくらきれいなビルを作っても、家を建てても町の見栄えは台無しになってしまう。それを放置していたのは役人だ。だから、みんなで協力して町並みをきれいにしようという運動が市民の間にも生まれてこない。自分の都合だけで適当に建ててしまえという寒々しい気持ちになってしまう。このような町並みが子供たちの精神構造に大きな影響を与えないわけは無い。今すぐに、われわれは十分に反省して町並みを作り直す行動を始めなければならない。

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